足利幕府の管領、細川氏の下、讃岐の守護代を勤めた香川、香西、安富、奈良の四氏は、畿内への出兵を念頭に、代々、領国経営を行ってきた。彼らの率いる軍勢は、管領細川氏旗下の幕軍として、その職務を果たして来たのである。
然るに、主家細川氏の衰退に伴い台頭した阿波の三好氏は、細川氏の執政として、讃岐の被官衆(守護代層)にまで、号令するに至った。嘗て、管領細川氏に率いられ、足利幕府の下、秩序維持の軍隊として機能した讃岐の侍たちは、今や、三好氏にその指揮を委ね、下剋上の無秩序下で、果てのない戦へと駆り出されたのであった。そして、数多の侍たちが傷つき、庶民たちは度重なる出兵の為、重税に喘いだ。
この時期(足利時代後期、下剋上期)、讃岐の侍たちは、自らのイニシアティブを、阿波侍に奪われ、全く将来の展望を欠いていた。斯様な時、土佐勢が讃岐に侵入した。
度重なる出兵で、稼働兵力が半数にまで落ちていた讃岐では、長宗我部氏の侵攻に対する対応も、各守護代家により異なったものとなった。まず初めに刃を交えることとなった多度津の香川氏は、その分家、観音寺香川氏の斡旋で、和議を結び、徹底抗戦を唱えた他の守護代家も暫時、土佐兵の軍門に下っていった。
然し、長宗我部氏の支配も束の間のことで、豊臣氏による大規模な四国侵攻が始まった。兵力、物量ともに勝る上方の敵兵に対し、讃岐武士は、各戦線で勇敢に戦った。だが、多勢に無勢、土佐勢の総退却によって、彼らもその進退を決しなくてはならない時が来る。ある者は旧領地内に隠遁、ある者は他国へと流れ、嘗ての城持衆は、消えて行った。讃岐武士の終焉である。
これより後、讃岐には、豊臣秀吉旗下の武将、仙石氏、尾藤氏が赴任する。尤も、双方ともに、その職責が果たせず、それぞれ僅か一年で改易となり、生駒氏が、播磨の赤穂より、入府する。新しい讃岐がここに始まる。
生駒氏の入府
1587年、生駒親正が入府する。親正は、秀吉旗下の武将で、隣国阿波の国主となった蜂須賀小六の朋輩である。彼は、近江高嶋郡、伊勢神戸(30,000石)播磨赤穂(60,000石)の城主を経て、讃岐(126,200石)へ赴任した。彼の知行は、豊臣氏勢力の拡大に伴って、年毎に倍増した。讃岐では、112,950石が、彼、生駒親正の知行高であった。(尤も、讃岐には13,250石の豊臣氏の蔵入地(直轄地)が存在し、生駒氏による一国支配ではなかった。)
上記のように、生駒氏は、その知行が急増した為、家臣団の編成が間に合わなくなった。親類縁者、同郷の士も多数呼び寄せたことであろうが、早急に屈強な軍事力を作り上げねばその職務を全うすることは出来ない。よって、赴任の先々で、兵力を補強することとなる。
我が讃岐では、守護代、香川氏、香西氏、奈良氏、安富氏旗下の多数の士が、家臣団に編入された。諸書によると、これら讃岐の国人衆を手引きとして、地方の経営にあたったとのことであるが、著者は、飽くまで軍備の急務が、多数の地侍を抱える要因となったように思う。朝鮮の役以降起こった家臣団の再編が、そのことを物語っている。
Sentence by Goda.