2010年5月29日土曜日

「倭漢三才図会」に見る四国遍路


四国遍路に関する画像データについて

本画像データは、「倭漢三才図会第七十九巻」に記載された阿波、土佐、讃岐、伊予に関する記事の内、四国遍路に関するものを抽出、一巻に纏めたものである。正徳五年(1715年)に成立したと伝えられる本書では、例えば、観音寺市の六十八番札所が八幡宮になっているなど、神仏分離以前の姿が伝えられていて、大変興味深い。本書を机上に提供する所以である。
「倭漢三才図会」に関する書誌は、次頁のノートを参照されたい。
編輯担当者 記



              「倭漢三才図会」について

「倭漢三才図会」は、江戸時代の百科事典とでも称すべき大部の書冊である。編纂者の寺島良安は、法橋の称号を持つ大坂在住の漢方医で、別名を尚順、号を古林堂といった。
本書の成立(刊行)は、巻頭に付された自序等から、正徳五年(1715年)のことと思われるが、詳細は分からない。構成は、分野別百五巻からなり、江戸期に刊行された版本には、八十一冊のものと四十冊のものの二種が存在する。各巻の詳細は、以下の通り。
首之巻:序・凡例・目録・跋、巻1:天文、巻2:二十八宿、巻3:天象、巻4:時候、巻5:暦占、巻6:暦日吉凶、巻7:人倫、巻8:親屬、巻9:官位、巻10:人倫之用、巻11:經絡、巻12:支體、巻13:異國人物 巻14:外夷人物、巻15:藝財、巻16:藝能、巻17:嬉戲類、巻18:樂器、巻19:神祭佛具、巻20:兵器 防 備、巻21:兵器 征伐、巻22:刑罰具、巻23:魚猟具、巻24:百工具、巻25:容飾具、巻26:服玩具、巻27 :絹布、巻28:衣服、巻29:冠帽、巻30:履襪、巻31:庖厨具、巻32:家飾具、巻33:車駕具、巻34:船橋類、巻35:農具、巻36:女工具、巻37:畜類、巻38:獸類、巻39:鼠類、巻40:寓類 怪類、巻41:水禽、 巻42:原禽、巻43:林禽、巻44:山禽、巻45:龍蛇類、巻46:介甲 亀蟹、巻47:介貝 鰒蛤、巻48:有鱗魚河湖、巻49:有鱗魚 江海、巻50:無鱗魚 河湖、巻51:無鱗魚 江海、巻52:卵生蟲、巻53:化生蟲、巻54 :湿生蟲、巻55:土地類、巻56:山類、巻57:水類、巻58:火類、巻59:金類、巻60:玉石類、巻61:雜石類、巻62:中華・北京・南京・山東・山西・河南・陜西・湖廣、巻63:中華・江西・浙江・福建・廣東・廣西・貴州・四川・雲南、巻64:日本總圖・朝鮮・琉球・蝦夷・西域・五天竺・北地諸狄・西南諸蠻、巻65:陸奥・出羽、巻66:上野・下野・常陸・上總・下總・安房、巻67:武藏・相模・伊豆、巻68:越後・佐渡・越中・信濃、巻69:甲斐・駿河・遠江・參河、巻70:能登・加賀・越前・飛騨・美濃、巻71:若狭・近江・尾張・伊勢・志摩・伊賀、巻72本末:山城 神社臼跡佛閣、巻73:大和、巻74:摂津、巻75:河内、巻76: 和泉・紀伊・淡路、巻77:丹波・丹後・但馬・播磨・因幡、巻78:美作・伯耆・出雲・隠岐・備前・備中・備後、巻79:阿波・土佐・讃岐・伊豫・安藝・石見・周防・長門、巻80:豊前・豊後・筑前・筑後・日向・肥後・大隈・薩摩・肥前・壹岐・對馬、巻81:家宅類、巻82:香木類、巻83:喬木類、巻84:灌木類、巻85:寓木 附リ苞木、巻86:五果類、巻87:山果類、巻88:夷果類、巻89:味果類、巻90:■果類、巻91:水 果類、巻92:山草 上下藥品、巻93:芳草類、巻94本末:湿草類、巻95:毒草類、巻96:蔓草類、巻97:水 草類、巻98:石草類、巻99:葷草類、巻100:■菜類、巻101:芝■類、巻102:柔滑菜、巻103:穀類、巻 104:菽豆類、巻105:造醸 酒果子鹽醤油、巻外:小目録、 (■印は、執筆に用いたコンピューターに該当する漢字がないことを示す。)
今回の掲載にあたっては、電子データ化が終了した上坂氏顕彰会図書収集部所蔵本を使用した。用いたテキストは、大坂の吉文字屋より刊行された全百五巻四十冊の和装本で、発行年は、添付された出版目録等から勘案すると、文化年間若しくはそれ以降と推定される。
テキストの法量は、全四十冊ともに、縦25.5cm、横18.1cm。

Photo by Goda.
Sentence by Goda.

2010年5月28日金曜日

「西讃府志」に記された仮屋浦


「西讃府志」について

「西讃府志」は、丸亀藩が藩政末期に制作した藩領に関する地歴書である。内容は、今一つ詳細を欠く面もあるが、現存する香川県西部地域に関する纏まった記録として唯一のものである。本書は、執筆担当者の直筆本と数部の手写本が存在するのみであったが、明治三十一年、那珂多度同志會の手によって、活字本が刊行された。
「西讃府志」成立の経緯等本書の書誌に関しては、上記活字本編集者、堀田璋左右氏の解説が詳しい。 ただ、残念なことに、この活字版は、堀田氏も記している通り、縮約本であり、「西讃府志」全てが印刷に付されたわけではない。為に、今日、その全貌を探ろうとすれば、丸亀市立図書館、鎌田共済会図書館、香川県立図書館等で架蔵されている手写本を参考にしなければならない。然し、これら手写本は、稀覯書であり、自宅に持ち帰っての閲覧は、到底不可能である。そこで、私どもが所蔵する手写本から電子データを作成、その一部をご紹介申し上げることにした。
合掌。

Photo by Goda.
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「金毘羅参詣名所図会」に描かれた江戸時代の琴弾八幡宮


「金毘羅参詣名所図会」について

讃岐の地には、「こんぴらさん」として親しまれている「金刀比羅宮」がある。「讃州御国中村切高惣帳(寛永十六年成立)」によれば、古くは「金毘羅」と称されてお り、別当を松尾寺が勤めていた。上記の生駒家奉行文書は、生駒宗家が寄進した金毘羅領(後世、俗に言う御朱印地)三百三十石の内訳を、金毘羅領二十三石五斗、松尾領三百六石五斗と記している。(詳細は、合田學著「讃州御国中村切高惣帳(上坂氏顕彰会史料出版部刊)」を参照されたい。) 国主、生駒氏の寺社への深い崇敬は、後の国主たちにも受け継がれていった。そし て、維新の動乱、明治政府の樹立、廃仏毀釈が起こるまでは、讃岐の寺社には平穏な日々が続いたようである。本書「金毘羅参詣名所図会」は、そのような神仏分離以前の讃岐の寺社の姿を伝えてくれる史料として貴重である。 ただ、本書の著者は、執筆に際し二ヶ月しか当地に滞在しておらず、細部に渡って自身の見聞を記したとは言えないかもしれない。むしろ、当時存在したであろう文献資料を猟渉、執筆の参照にしたと考えた方が無難であろう。然し、何はともあれ、江戸期の人によって描かれた当時の讃岐の姿は、現代に生きる我々にとっては、随分と珍しいもので参考になる。本書は、六巻より構成されており、弘化四年(1847年)の出版である。 著者は、暁鐘成。「西国三十三所名所図会」、「摂津名所図会大成」、「淡路国名所図会」等の著作がある。絵師は、浦川公佐。
合掌。

参考
金毘羅参詣名所図会
http://konpira.blogspot.com/
Photo by Goda.
Sentence by Goda.

「金毘羅参詣名所図会」に描かれた江戸時代の十王堂


現在、十王堂と称されている地域は、江戸時代、当地の武士団の墓所でした。観音寺城(高丸城)城主、上坂丹波守、上坂勘解由といった人々の墓所が営まれていましたし、足利時代の侍名を記した骨壷なども発掘されています。
明治以降、神仏分離により、嘗ての寺域内に八幡宮の施設が新設された為、その面影は潰えさってしまいました。残念なことです。
合掌。


参考
讃州生駒家家臣 上坂氏
http://iewake.blogspot.jp/2012/06/blog-post_7627.html
合田學校訂 「生駒家家臣分限ノ記」
http://nkdigitalarchives.blogspot.jp/2010/10/blog-post_10.html
合田學著  観音寺市志史料篇-1 生駒氏統治時代
http://nkdigitalarchives.blogspot.jp/2010/06/blog-post_03.html
金毘羅参詣名所図会
http://konpira.blogspot.com/


補遺


旧版「観音寺市誌」に収録されている上坂丹波守の碑。
神仏分離後、墓域は荒廃した。
合掌。

Photo by Goda.
Sentence by Goda.

「金毘羅参詣名所図会」に描かれた江戸時代の観音寺


琴弾八幡宮の別当寺として栄えた観音寺、今日とは異なる相貌を見せています。
合掌。

参考
金毘羅参詣名所図会
http://konpira.blogspot.com/

Photo by Goda.
Sentence by Goda.

「金毘羅参詣名所図会」に描かれた江戸時代の三架橋


岩国の錦帯橋を髣髴させる絵が記されていますが、これが、江戸時代後期の三架橋です。亦、財田川は染川とも呼ばれていたように、川原に染物を干している情景も描かれています。この画像をダウンロード、そして印刷し、細部を分析してみるのも一興かと存じます。
合掌。

参考
金毘羅参詣名所図会
http://konpira.blogspot.com/

Photo by Goda.
Sentence by Goda.